病院での生活
朝6時 起床。
8時 朝食。
9時30分 シャワー
10時 足浴。
10時30分 処置。
個室でパルス治療をしてた時は、処置後点滴。
12時 昼食。
午後は決められた曜日に外来受診。火曜日は第2内科、木曜日は第1内科。
金曜日は教授回診。教授を先頭に、助教授、病棟医長、医師団、研修医、学生・・・多い時は20人を越す大名行列でした。
ベッドをぐるっと二重の人垣に囲まれての診察は、時に堪え難く感じることもあります。大部屋であっても、患者ごとにカーテンを引いて診察するのですが・・・
私の疾患は下肢でしたからいいものの、アトピーなどの若い女性は、衆人環視の中で肌を晒し、時には資料のため写真を撮り・・・
入院して初めての教授回診を受けた、同室の25歳の女性は、悔しさのあまり真っ赤になって涙を流していました。大学病院だから、仕方がないのでしょうか・・・
18時 夕食。
20時 夜回診
21時 消灯・・・
消灯後は原則テレビも不可でしたが、22時くらいまでは大目に見てくれてました。
消灯後も、特に重篤でない限り、眠れない人はディルームや喫煙室で起きていました。私も病室から出られるようになってからは常連のひとりで、
同じような人達と良くお喋りしてました。
まだ大部屋にいる頃、誕生日を迎えました。家族や友達から、電報や花束、メールが届きました。
大好きな人から、旅行のお土産と一緒にメッセージテープを貰って、嬉しくて泣きました。何度も何度も、繰り返し聞いていました。
その声を聞いていると、まだ私には居場所があるんだなと思えて嬉しくて。
その後、パルス治療のために個室に移りましたが、良い事もありました。同室の人の気配を感じない、ということです。
24時間他人の中で生活するのは、思ったよりストレスになります。幸い、同室者とトラブルが起こったり、
我慢出来ないような人はいませんでしたが、それでも色々気疲れするものです。
同室者にお見舞いが来るのを見なくて済む、という事もありました。地元から車で5時間以上という距離では、見舞い客は早々来ません。
家族でさえ稀な状況だったので、同室の人にお見舞いが来ているのを見ていると、とても寂しかったのです。
個室から出られない状況では、一日顔を合わせるのは、担当医と看護婦、掃除のおばさんくらいでしょうか。
このベテランの掃除のおばさんは、とても気さくな人で、私の病室を一番最後にして、あれこれとおしゃべりの相手をしてくれました。
私も、担当医や看護婦には言えなくても、このおばさんには色んなことを話しました。
まるで親戚の叔母のように接してくれて、今でも感謝しています。
大量のプレドニンによる副作用は、この頃ピークでした。ムーンフェイス、免疫力の低下による吹き出物、精神的な躁鬱、手足の震え、大量の発汗、食欲の波・・・
内科疾患に結びつかなかっただけ、まだ幸運でした。
しかし、この半軟禁状態の生活によって、精神的には限界に近づいていきました。それでも何故か、担当看護婦にも不満を打ち明けたりは出来ないのです。
誰かにぶつけたらどんなに楽だろう。自分のわがままをぶちまけて、もういやだと喚いたら・・・
そんなプレッシャーのせいなのか、この頃、胸に痛みを感じるようになりました。
実はこの胸の痛みは、記憶にある限り高校生の頃からありました。突然、針に刺されるような痛みを感じるのですが、数分ですっきり治ってしまいます。
特に支障もなかったので、病院に診てもらう事もありませんでした。その後も、思い出したように感じることはありましたが、ここに来て急に強くなったのです。
強い痛みを感じ、数分どころか30分以上も続く事もありました。
さすがに申告し、心電図モニタをくっつけた生活を数日過ごしました。その後心エコー等で検査をした結果、痛みは心臓疾患ではなく、肋間神経痛だったようです。
これ以上深刻な病気が増えては堪らないと思っていましたので、この時ばかりはほっとしました。
副作用に悩まされながらも、確かにプレドニンは効いていました。潰瘍の回復するスピードが速くなり、パルス治療は3スパンで終了。
その後内服60mgを徐々に減らしていき、40mgで大部屋に戻る事が出来ました。
同室の人を疎ましいとさえ思ったこともありましたが、それでも私はとても運が良く、いつも良い人に囲まれていました。
おかげで退院までとても楽しく過ごせました。
ずっと向いのベッドだったKさんは、とても明るく気さくな人で、いるだけで病室が和やかになるほど。
大部屋に移動後は、病室から出られるようになったので、病棟内に友達も出来ました。他愛ないお喋りをしたり、時にはそれぞれの病気について悩みを打ち明けあったり。
それだけで、思いつめていた心がほぐれていきます。
人と接するという事が、どれほど大切か。
自分がどれだけ周りに支えられて生きているか。
長い入院の間に、私は感謝をして生きるということを勉強しました。
強い薬と、少しづつではあっても精神的な安定を得る事によって、症状は良くなっていきました。
ほぼ全ての潰瘍が塞がり、プレドニン服用量が外での生活が出来る30mgという量になった頃、もう季節は夏になっていました。
年が明けた冬に入院してから、ちょうど200日間、6ヵ月半が経過していました。
2000年7月31日、大学病院を退院しました。
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