7/19   Tue.  23:44:09

某誌のグルメ取材を引き受けることにした。仕事というより、ボランティアに近い。何せノーギャラ。
週末時間を見つけては美味しいと聞くお店へ行く友達と、某誌のサイトで取材員を募集しているのを見付け、一石二鳥だと問い合わせたのだ。
ギャラはナシ、飲食代はアチラもち。指定されたお店へ出向き、その店イチオシのメニューを、スタッフに説明を聞きながら食べる。それを130字前後のコラムにして提出する。 仕事の取っ掛かりになればという下心も、無論ある。

初取材の昨日は、人気のある居酒屋ダイニングで、「さっと蒸したキャベツとカリ×2豚肉〜アンチョビソース仕立」メニュー名ながっ。かりっと竜田揚げにした豚肉と、レンジ蒸しした甘みのあるキャベツを、バルサミコを効かせたアンチョビソースと絡めて食べると、思いのほかさっぱりとしたお味。
なーんてことをメモしながらいただいた。なかなか面白い。
当分はこの件でちょこちょことお出掛けする予定。気も紛れるだろう、多分。
7/18   Mon.  21:28:41

そろそろ日が落ちたくらいの時間、自宅の電話が鳴った。とる前に番号を見ると父から。あーあ、また今度はなんだよと思いながら電話に出た。 消え入りそうな第一声で、何かあったなとは思った。父の姉の夫、つまり私の伯父が亡くなったという知らせだった。

夕食もそこそこに、父を迎えに行ってから伯父の家に向かう。伯父はかなり前に喉頭がんの手術をしていて、5年ほど前に従兄弟の結婚式で会ったときは殆ど話すことができなかった。話そうとしてもヒューヒューと喉の奥から音が漏れるばかりで、それでも伯母だけは伯父の言うことがわかっていた。 その後も入退院を繰り返し、今回も3ヶ月弱入院していた。だから皆覚悟をしていたんだろう。既に集まっていた伯父の兄弟は枕元で談笑していた。

手を合わせて、お顔を見せてもらう。祖母のときも思ったけど、こんなにも痩せてしまうものなのか。眼窩と頬が落ち窪んで、頭蓋骨の形そのままだった。記憶の中にある伯父は少々恰幅が良くて大きな声で喋って笑う人だった。思春期の私はむしろ鬱陶しいと思っていたくらいだったのに。

伯父は酔うと馴染みのお寿司屋の折り詰めを持って、自宅に帰る前に私の家に来た。お酒の匂いをさせた伯父が大声で私たち姉妹を呼び、何時であろうと寿しを食え、という。それがありがた迷惑で、でも伯父は私たちがもう小さな子供ではないことに気付いていないかのように、食べている姿を見て安心して帰って行く。伯父の思い出といえば一番に出て来るエピソードだ。
自宅で店舗を営んでいたので、今では珍しい、前面に店舗、奥のガラス戸の向こうに居室がある、昭和レトロな番組で見る雑貨屋のような自宅。真ん中に据えてあった薪ストーブも珍しく、アクを捨てに行く裏の土間も、私には物珍しかった。 若い頃父はここで数年を過ごし、伯父と一緒に中古のバイクを直して走れるようにして、北海道一周をした、と聞かされている。

この日記を書きながら、そういえば小さい頃、お札より硬貨を喜んだ私に、お年玉袋にセロテープで繋いだ100円玉を10枚入れてくれたことを思い出した。

そんな騒々しくてお節介な伯父も、晩年は声を奪われ、すっかり小さくなって、それでも家族に看取られて旅立っていった。享年76歳。
お盆には、伯父が好きだったお酒を持って行こう。
7/3   Sun.  22:54:05

あっちへ行ってこっちへ行って、あれを調べてこれを準備して、怒られて苦情聞いてイヤミ言われて。
私が何をしたって言うのよ。子供の使いくらいの事しか出来ない父の代理をして、消耗して、そんなケアまで出来ないよ。 自宅で仕事ってそんな楽じゃないんだよ。びっちり作業してなくても、待機して連絡あったら即対応しなくちゃいけない状況で、1〜2時間の外出時間を捻出するのは簡単じゃない。 そのしわ寄せは、自分に返ってくる以外ないのに。

自分が頑張っただけ幸せになれる人生って何処にあるんだろう。
どっか逃げたい。
7/2   Sat.  25:30:25

先週から始動したプロジェクトはシステムが外部のもので、アレコレと要望を出していたにもかかわらず、ギリギリになって上がった正式版に半分も反映されていない。マニュアルも後回しで、まさに手探りの作業。
それの合間を縫って、母の病室と父の諸手続きに奔走。かなりハードな毎日で、体力もつんだろうか・・・。

今月からファイテンのRAKUWAを身に着け始めた。折角贈ってもらったのに長めだったので、後ろを編んで短くしてみた。効果あるといいなぁ。